その昔、原ゲルマンの神話伝説を携えて英国へ渡ってきたアングル人の手になると思われる、美術作品が彫られた。現在、大英博物館所蔵のその貴重な小箱(寸法 23㎝x19㎝、高さ11㎝)には、鯨の骨(一説には海獣の牙)を板状に削り加工し、表面に精巧な彫刻が施されてある。7~8世紀に北部ノーサンブリア(Northumbria)
で製作された品と判明していて、単なる骨董的価値を超えている。現代人は 「フランクの小箱」(Frank's Casket)と呼び慣らわしているが、その名は、古代アングロ・サクソン文化の生き証人ともいえる稀有な価値を発見した人物、フランク卿(Sir
A.W. Frank)に因んでの命名だ。
小箱の5枚の板面(底板以外の面)には、いずれも装飾的なルーン文字、古期英語、ラテン語などで囲まれた枠の中に、様々な物語が緻密に彫られている。ゲルマン神話伝説、ローマ神話、聖書を出典とするエピソードなどが丁寧に描写されている。
正面鍵穴のついたパネルの左半分に描かれているのが名鍛冶ヴェールンドの伝説だと読み取れる。髯を生やして不自由そうな脚の鍛冶職が鉄床を前にして仕事をしている風体。左手に万力を握っている。地面には首の無い人間が横たわっているのが判る。さらに右手には酒杯があり、王女と思しき長衣の女性(髭がないので女性であろう)に差し出されている。
小箱には、ゲルマンの民俗事象と並んでキリスト教の聖書からの挿話も描かれている。選ばれた題材は何を意味するのか。それらが一つの信仰や文化に限定されず、クロスカルチャーの規模に及んでいることから、いずれも当時の人々には知名度の高いものだと推察される。つまり、名鍛冶ヴェールンドの伝承は有名な話種であったことを示唆している。この小箱はそれを伝えてくれる格好の証拠なのだ。
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<参考資料>
"The Lost Gods of England", Brian Branston, Thames and Hudson,
(1974), London.
"Wayland's Smithy: History & Legend", Nancy Hood, Vale and
dowland Museum Centre (1985), Wantae, UK.
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