11Dドルイド僧

 <寄り道コラム> ドルイド僧                                                       
                                                           S.ピッゴト教授著「ドルイド」の表紙 古典の定義による「ドルイド」

   ドルイド(Druid) の語意は「(樫の)森の賢者」で、ドゥル=樫の木、とウィド=知識
 の合成語である。 樫の木は、神が宿る御神木とされ、至高の神の象徴であった。従って、
 ドルイド僧は、主として樫の木にて神事を行ったと伝えられる。下記に示すように、古代
 ケルト社会では文字による記録保存をしなかったので、現代人がその内容を知るためには、
 虚実両面で、誤解や誇張もあるが、古典(ギリシャ・ローマ)の文献が頼りなのだ。  
  古代ローマのジュリアス・シーザーは、紀元前58年~51年に行われたローマ軍のガリア
 遠征を記した『ガリア戦記』に、ガリア人(フランスのケルト人)の祭司ドルイドについて
 貴重な記録を残している。要点は、ドルイドがいかに特権的な知識階級であったか、秘儀伝授
 の口誦伝統を持ち、魂の輪廻転生の哲学を重視したことだ。

VI 13 ガリアを通じて尊敬され問題にされる人間は二種類ある。民衆はほとんど
 奴隷と見做され、自主的に何もできず、何も相談されない。・・・二種類の人
 の一つは僧侶であり、もう一つは騎士である。僧侶は神聖な仕事をして公私の
 犠牲を行い、宗教を説明する。教育を受けようと多数の青年が集まってきて、尊
 敬されている。公私のあらゆる論争を裁決し、犯罪があったり、殺人が行われた
 り、相続や国境についての争いが起きたりすると、同様に裁決して賠償や罰金を
 決める。・・・(略)

「VI 14 僧侶は戦闘に加わらないのが普通で、他のものと一緒に税金を払うこと
 もない。〔軍務を免除され、他の事からも除外されている〕。その大きな特典に
 心を惹かれて多くのものが教育を受けに集まって来るが、両親や親戚から出されて
 来るのもある。そこで沢山の詩を暗記するといわれている。こうして或るものは
 その教育に二十年もとどまる。その教えを文字に書くのはよくないと考えてい
 る・・・(略)。私には二つの理由からそうなったものと思われる。その教えが
 民衆の中にもち込まれることを喜ばないのと、学ぶものが文字に頼って記憶力の
 養成を怠らないようにしたいのと、二つである。確かに多くの人々は文字の助けが
 あると、熟達しようという努力も記憶力の訓練もないがしろにしてしまう。僧侶は
 まず霊魂が不滅で死後はこれからあれへと移ることを教えようとする。こうし
 死の恐怖は無視され、勇気が大いに鼓舞されると思っている。僧侶はその他、星座
 とその運行について、世界と大地の大きさについて、ものごとの本質について、
 不滅な神々の力と機能について、多くを論じて青年に教える。」
   (『ガリア戦記』カエサル著 近山金次訳 岩波書店 1994年 第46刷)

 ドルイドは、シーザーの述べた神官、裁判官、哲学者などの役割に加えて、呪術・医薬を含む魔術師の役割も持っていた。特に「樫の木の宿り木(パナケア)」には、万能薬としての効目があるものと信じられていた。宿り木の採取は、冬至祭のメインイベントだったという。もともと森の樹木には聖霊が宿ると考えられており、ドルイドは祭壇を構えず、森で修業を積むと言われていた。厳しい冬の季節、万物が死んだように見える中、緑を失わない宿り木は、生命や活力の源で、不滅の存在、神性の発露のように思われていた。(欧米のクリスマスの俗信に、宿り木の下でキスをすると、二人は結ばれるとの言われがある。クリスマスは冬至祭のキリスト教版。)

古代ローマの学者プリニウスは次のように述べている。

 「『宿り木』について忘れてはならないのは、ガリア人がこの
植物に抱いている感嘆の気持ちである。ドルイド・・・にとって、
宿り木とこれが寄生する樹木ほど神聖なものはない。・・樫の木は
それ自体がすでにドルイドに神木とされている樹木である。・・・
樫の木に寄生する宿り木は極めて珍しい。だからこれが見つかると、
宗教的に大々的な準備をして摘み取りに行く。・・・典礼にのっとり、 木の下に生贄と食事を用意し、白い雄牛を2頭、角を結び合わせて
近づける。
 白衣を着た一人の祭司が木に登り、黄金の鎌で宿り木を切る。下に
いる人々は白い厚地の布でそれを受ける。それから生贄を捧げて神の
慈悲を乞い、祈る。」
   (大プリニウス 『博物誌』第16巻95)
   『ケルト人』クルスチアーヌ・エリュエール著 鶴岡真弓監修、
    知の再発見双書35 創元社1994年


ドルイドの抹消  

 紀元1世紀の中頃、ケルト系種族の支配するブリテン島は、ローマ帝国の侵略を受けて属国となってしまったのだが、ドルイドが滅亡した背景には征服者ローマ人が深く関与している。なぜか? 先にも述べたように、ドルイドとは、ケルトの宗教を司る祭司、神官、僧侶、魔術師などの役目を持っていた。表面的にはシーザーの指摘にもすでにあるように、ケルトの宗教行為として、野蛮な人身御供を積極的に行っていたからだった。これは、先進的なローマ的価値観からは、断じて容認し難い残虐な蛮行と解釈された。
ローマは共和制時代から帝政時代に亘って、周辺地域支配(初めはゴール地方、のちにはブリテン島)の政策として、ドルイドの抑圧に乗り出した。“Pax Romana”「ローマの平和」の標語が物語っているように、ローマ帝国の支配下となった地域では、ローマの権威がその地域の平和を保障する。つまり、その平和はローマの軍事力と法秩序により保たれるのであった。そして、水準の高いローマ的文明をも享受する恩恵に浴せるのだ。ところが、ドルイドの宗教は、文明とは相反する野蛮性と後進性を備えた宗教(人民を犠牲に捧げるから)であるから、ローマ帝国領内では、許すことはできないという論理が働いていた。


それだけならいざ知らず、ドルイド教には、ケルト・ナショナリズムが具象化されてもいた。ドルイド教は、ケルト文化の中核であったのだ。どんな民族にとっても言えることだが、固有の文化や伝統は、その民族の宗教/信仰と混然一体となって発展するものだ。特定の民族の宗教を廃止、禁止、抑圧、根絶することにより、そのナショナリズム民族意識や民族の帰属感を弱体化することができる。ことケルト文化圏では、社会のあらゆる局面で、ドルイド僧の果たした役割が極めて大きかった。つまり、ドルイドは、神聖な領域である神事を司り、魔術(医術)を行い、予言をするばかりでなく、世俗的な領域である司法、修行を含む教育、事績の記録管理(文書によらず記憶による)を行い、支配者への助言をも提供した。一言で言えば、聖俗を一手に握った上流階級知識層を構成していた。ドルイドの社会的地位の高さや特殊な技能ゆえに、一般人民は大きな尊敬を払っていたのだ。ドルイドは職務的な理由(修行)で、自由に各地を巡回し遍歴することも許されていたから、吟遊詩人(バード)のように、各地の情報収集、伝達に関しても、その役割は大きかった。行く先々で、情報媒体役として、支配者の宮廷に快く受け入れられたのも納得できる。


 そんなわけでローマ人占領者・征服者にとって、英国内のドルイドを野放しにしておいては、セキュリティ上、誠に危険なことであった。不穏な反政府活動の温床ともなりかねない。ウェールズの反乱やロンドンにまで攻め入ったイッチェニ国(現在のケンブリッジを含むアングリア地方)の反乱などを鎮圧したのを契機に、容赦ないドルイド撲滅政策が実行された。かくして、ローマ帝国の価値観と相容れないドルイド僧とケルトの宗教は壊滅した。ドルイドの権威が幻の復権を遂げ、美化され、再び脚光を浴びることになるのは、1700年後のことになる。

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<参考資料>
「ケルト人:蘇るヨーロッパ<幻の民>」 知の発見双書35  クルスチアーヌ・エリョエール著 鶴岡真弓監修 創元社 1995年1月20日
「ガリア戦記」カエサル著 近山近次訳 岩波文庫 岩波書店 1994年10月15日
「ゲルマーニア」タキトゥス著 泉 井久之助訳註 岩波文庫 岩波書店 1994年7月15日
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