12スタントンドリュー

    左:コーヴの3巨石                    中央:スタントンドリュー村鳥瞰図 :1723年スケッチ W.ステュークリーに依る 

                                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

スタントンドリュー村「ウェディング」踊りの輪の伝説

 ある晴れた土曜日のこと、田舎の村で結婚式がありました。教会の鐘の音が結婚式の開始を告げると、花嫁、
花婿、親類縁者に村人たちも加わり、牧師さんの手で結婚式が執り行われました。祭壇前で永遠の愛を誓い、若い二人は晴れて夫婦になりました。
 その後の段取りもよろしく、一同、祝宴へと移ります。辺鄙な田舎のこと、めったにない祝宴です。新郎新婦に参列者、「ヤレ、めでたいのー」と、飲めや歌えの大騒ぎ。ついには、野原に繰り出して、素人楽師の演奏に、
足取り軽くウキウキと、大きな踊りの輪ができました。熱狂的な踊りはいつお開きになるとも知れず、延々と続きます。やがて陽も暮れ夜も更けて、夜中の12時が近づくと、ハープ弾きの楽師は 「明日は日曜の安息日なので、この辺で・・・」と言い、立ち去ります。
 佳境に入ったところで水を差された酔客は、それでも踊りたりずに大いに不満顔。特に、新婦は大不機嫌。そこへ折よく現れたのは、旅人風体の老バイオリン弾き。楽師の代役を買ってでました。機嫌を取りなおした踊り手たちは、アップテンポの狂想曲に夜更けまで踊り明かし、羽目を外して騒ぎ合いました。黒衣のバイオリン弾きは次第に演奏のテンポを早め、狂気じみた域にまで達すると、踊り手たちは、もはや止めたくても止めることができなくなったとも伝えられています。
 一筋の日の出の暁光が差すと、踊り手たちは、一人残らず石になってしまいました。黒衣の老バイオリン弾きは悪魔だったのです。悪魔は、高笑いしつつ立ち去ります。安息日の朝の陽が昇り、善男善女の村人が起きだすと、大きな石の輪と、2つの小さな石の輪と、3本の立石ができていることを見つけてビックリ仰天。 これは、神の罰か? それとも悪魔の呪いか?  今でも石は人間に戻れず、村はずれに立ったままです。

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所在地: サマーセットシャー、スタントンドリュー村、教会裏の牧草地。

構造: 大サークル(祝宴の踊り手たち) 直径112.2m(所説あり)  元36個の巨石のうち、27個残存。
                     そのうち、3個のみ直立。夏至の日の出を基軸

    中サークル(他の踊り手たち)  直径44.2m 元12個の巨石 残存する11個は全て倒れている。

    小サークル(楽師ら・・・伝説とは、やや矛盾する) 直径30m 元8個の巨石 うち4個直立
                   (高さ3m、重さ15トン級の最も大きな石を使用)
                    急傾斜地の端に位置するので、3輪のうち、最後にできたらしい。

    コーヴ(花嫁・花婿・牧師の3人) 3個の屏風石で空間を成す。教会の裏手で、昔果樹園だったところ。

    アヴェニュー2本         サークルの東側に2本の参道の痕跡が探知され、川に達する。


附記: スタントンドゥルーは、サマーセット州ブリストル市近郊にある村。珍しい名は、村の大農家の苗字 Drew とサクソン語の石stanと村 tun が組み合わさった造語で、「ドゥルーさんとこの石の村」。


 伝説の発祥時期はいつ頃だったか? 所説はあるが、信憑性があるのは、17世紀、厳格な清教徒vs伝統派のアングリカン/カソリックの抗争が根底にあるようだ。(D. & L. Corio) ジェームス1世は、1618年乱れた風紀取締りを意図に、「娯楽勅令」(Declaration of Sports スポーツには運動および一部の娯楽も含む) を発布した。 それによると、安息日には、踊りや他の軽い運動は許容されるが、大騒ぎしたり、動物を闘わせる賭博などは禁止。これに対して、厳しい規制を要望する清教徒は猛反発し、国王の勅令は宙に浮いたまま。

 その後清教徒の勢いが一層増し、ついに1634年清教徒革命が起きて、王政は廃止され、共和制となる。娯楽を抑圧する厳しい掟は、いずれ1660年の王政復古により緩和されることになるが、それまでは清教徒の戒律の下に、踊りさえ禁止する風潮ゆえに、踊り手が石となったという伝説を誇大に流布させたたものだろう。西部の他所でもストーンサークルは石にされた人間だったという類似の伝説が幾つもある。


 学術的発掘はまだ実施されていないが、エイヴベリー環壕遺構 やストーンヘンジとの類似性から、考古学的に、紀元前2800年頃から建造され、200~300年間使用されたとの見方がある。 (未完成だった可能性も無きにしもあらず。) 比較的短命なのは、恐らく最寄りのストーンヘンジの建造が本格化して、そちらに製造の主眼や労働力が注がれたためとの説がある。


 いまだ解けない謎がある。ストーンヘンジやエイヴベリーの設計に類似して、アヴェニューと呼ばれる参道があったことは、意味深長だ。前2者と同様、参道は、川岸で終わっている。神官や宗教行為の参列者が川からやって来て、川へと帰って行ったのだろうか。 水を汲み、水を注ぐ祭祀があったのだろうか。川との近接が、水を欲しがる巨石の伝説の源となったとも考えられる。

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<参考文献>
"A Guide to the Stone Circles of Britain, Ireland and Brittany", Aubrey Burl, Yale University Press (1995), New Haven and London.

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