<流浪の歴史その3>
スコットランド建国の経緯と伝説
さて、6世紀初期に時計の針を戻そう。アイルランドから海を渡った島嶼部
(現在のスコットランド西部の島々)に植民地を造営するために、ファーガス・
マクエルク(Fergus MacErc) が、「石」を携えてやって来た。現在のキンタイア
半島のアーガイルを拠点とし、城をダンアッド(DunAdd) に築き、そのアイルラ
ンド植民地をダルリアーダ(Dalriada) と呼んだ。広大な内地は後に、スコット族
が入植し、先住民ピクト人を征服融合して国を統一したので、スコットランドを
呼ばれるようになった。 後、城がダンアッドからダンベグ(Dunbeg) に移され
るに伴い、当然のことながら、「石」もダンベグに移された。
844年にマクアルピン2世(Kenneth MacAlpin II)が即位し、国の統一を成し遂げると、東部のパース(Perth) に遷都したのに際して、「石」もパース最寄のスクーン町のスクーン修道院(Scone
Abbey) に移管されることとなった。バイキングの来襲に備える目的だった。国が大きくなるにつれ、「石」の重要性・象徴性も注目されるようになり、以後、400年に亘り、34人のスコットランド国王が「石」の上で即位した。
なお、単に噂の域を出ないのだが、スコットランド内での王位継承の内紛から「石」を守るため、ロバート1世はその遺言で、「石」をマクドナルド家に託し、ベブリーデス島に運ばせたとも伝えられる。
ともかく、「石」がスコットランドに在った13世紀末までの時代に、人々が『スクーンの石』と呼んでいたか否かは定かでない。信頼できる資料によると、その呼び名は13世紀末に、ロンドンに移管されてからの呼称であったと主張する向きもある。つまり、スクーン修道院からロンドンへ運ばれてきた「石」なので、単純に「スクーンの石」と呼ばれたとすれば、納得がゆく。
附記:「運命の石」の呼称について
「運命の石」へのシンパシーの背景には、中世に特徴的な運命論的予言のような理論づけがあった。それは、
「石」の表面には、2行に亘る古代文字が刻まれていて、解読すると予言のようだった、というものだ。現代語に訳すと、「石の存在は、スコットランド人の支配を運命づける」とか、「予言により、この石が在る所は、スコットランド人の支配する地なり」との趣旨だとか。その怪しい古代文の出所は不明で、しかも「スコーンの石」には、そのような刻銘はない。別の史料との混同があるのは明らかだ。
すでに述べたように、「石」がスクーン修道院に在った時代には、「スクーンの石」とか「運命の石」などの呼称は、記録されていない。ロッドウェル氏
(Warwick Rodwell) によると、「石」がロンドンに持ち去られて以後、次第にいろいろな噂が広まり、新たな伝説が付け加えられた。スコットランドの国粋的傾倒や懐古的感傷がそうさせたものだろう。「運命の石」をアイルランドではなく、スコットランドにあてはめての発想は、16世紀末
(エリザベス1世の治世) から出始めたらしく、19世紀半ば(ヴィクトリア時代)になって広く一般に流布した。特に、スコットランド出身者が好んで用いた呼名だとのこと。恐らく、当時流行のローマン主義の影響が大きかったのだろう。上述の刻銘予言は、スコットランド愛国者の単なる願望を、都合の良い証拠に仕立てたのかもしれない。
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