誤解が生んだ傑作:ペロー著「シンデレラ」は本当に誤解から生まれたのか?
「瓢箪から駒」といいうのは、そうめったにない事だが、それでも世間には誤解が生んだ傑作というのがある。
その好例として、今日広く知れ渡っているのが、シンデレラの”ガラスの靴“だ。シンデレラのお伽話は、グリム童話を
はじめ、世界各地に幾多の類話が存在する。それらを差し置いて、17世紀のフランスの文人シャルル・ペローの
『サンドリヨン』が英訳の『シンデレラ』を通して世界中に広まり、オペラやバレー、パントマイムやアニメ映画などの
他芸術にも採用されるほどに成功を収めてしまった。その理由は、原著者ペローの軽快な語り口、夢のある発想、映像的な描写、ドラマチックな演出効果など、成功の鍵となる要因を数え挙げればきりはないが、極めつけは、意表を突いた
”ガラスの靴“の採用であろう。
ペローが、古くから人々が口伝えで流布していた民話を、昔話として収集編成した時、“リス皮”の上靴(室内履き)を
”ガラスの靴“に改変してしまったことに端を発する。リス皮(vair) とガラス(verre)はフランス語ではヴェール[vɛ:r] と
発音される同音異義語なのである。後年、巷では、ペローともあろう大家がスペリングを間違えたために、かえって作品
価値が高まったと指摘され、誤解が生んだ傑作のようにさえ言われるようになった。確かに、作家のスペリング・ミス
との風評は、ゴシップ好みの大衆の好奇心をそそり、ここのところその皮肉はすっかり定着してしまった感がある。
仏和辞書や百科事典には堂々と「ペローの間違い」と記しているものさえある。
それこそとんだ間違いだと、ペローの名誉のために弁護したい。“ガラスの靴”と改訳したのは他ならぬペローでは
あるが、彼は確固たる信念を持って、的確に読者の反応を予測し、意図的に修正を施したに違いない。
シャルル・ペローはルイ14世の大臣コルベールの下の有能な官僚であり、アカデミー・フランセーズの会員でもあった
そうだ(白水社「訳者あとがき」p.208)。 その社会的立場から考えると、フランス語を操ることにかけては、権威と
言って良い。印刷ミスで無い限り、物語のキーワードとも言える重要語句のスペルミスをした可能性は皆無に近い。
17世紀末といえば、フランス文学では古典主義最盛期の時代であった。その頃、芸術や学問分野で「古今論争」が大いに戦わされたことがあったそうだ。ペローは進歩派・現代派の側に立ち、古典派相手に華々しく論陣を張り、そのための
著作『古代人と現代人の比較』さえものしていると伝えられる(白水社 p.208)。 フランス人は、古代ギリシャ・
ローマ風の理性的・合理的で形式を重んじた重厚な作風にいつまでも追従せず、新鮮さを重視するフランス的特徴を
誇らしく反映した当世流の芸術表現がフランスにあってしかるべきであると主張したという。
彼のこの文学的信念に基づいた姿勢で、昔話を語る時、彼の行動を律しただろうと信ずる根拠を与えてくれる。当然の
ことながら、伝承の原形を多少修正したり、自身の創作部分を挿入したりなどして、ペロー流に改作されていても責める
ことはできないだろう。 後述するが、グリム兄弟はできる限り伝承の原形態を保存して、童話の編集に当たったと伝え
られる(岩波 p.227)が、そうであれば、編集姿勢においてペローとグリムは両極端であった。 だからこそ、メルヘンチックな衣を脱いだグリム童話が、“本当は恐ろしい”と修飾語を付けて評判になったと言える。
そんな経緯を念頭において、ペローの『サンドリヨン(灰かぶり)』(1697年初出)と、グリムの『アッシェンブッテル(灰かぶり)』(1812年初出)を読み比べてみよう。 まず、17世紀後半~19世紀初頭に流布していたオリジナルの民話自体が、フランスとドイツでは多少異なっていた可能性があったことを考慮しなくてはならないだろう。 いわゆる
国民性の違いというもので、フランスの昔話は、ドイツのものに比べて、明るくのびやかだ(ほるぷ出版 堀内誠一 pp.307~309)。 穏やかな風土と恵まれた豊かな田園で、常識的で理性的な人々によって語り継がれてきたためらしい。また、おしゃべり好きのフランス人のこと、聞き手を退屈させないための気転や辛辣さ、時には残酷味さえスパイスに
してしまう。 それに対してドイツの民話には、宿命を背負い、一途に何かを追い続ける暗い陰湿さや得体のしれない
不気味さがある。ただし、それと同時に、メルヘンのライセンスともいうべきハッピーエンドの救済が多く設けられていることにも気付かされる。おとぎ話の世界には、過酷な現実を持ち込みたくないかのようだ。
さて、『アッシェンブッテル』と『サンドリヨン』の作品固有の違いは数々あるが、大きく見て、①援助者、
②舞踏会の門限、 ③靴の素材、の3点に絞って比較し、ペローの創作意図を検討してみよう。
① 援助者: 「ハシバミの木と小鳥」 対 「仙女」
グリムの少女はいつまでも亡母の影を引きずっていて、しばしばお墓を訪ねていた。母の霊を宿し、その再生として
生育したお墓のハシバミの木と白い小鳥が、アッシェンブッテルに力を貸す。
ペローはサンドリヨンの頼りになる後見人として魔法の杖を持った仙女を登場させ、カボチャの馬車を仕立て、
舞踏会へ行けるように取り計らう。 幻想性を備え、かつ実行力を持った現実の人間的存在として援助者を設定している。ペローはこう考えたのではないか
--- 世に出るためには、何人も後ろ盾が必要であるとの具体例としてこの作品を提示
するためには、援助者は動植物ではなくて、確実で身近な人間でなくてはならなかった。
② 舞踏会の門限: 「日暮れ」 対 「夜12時」
グリムは庶民の日常生活を色濃く反映し、一日の活動の区切りとしての日暮れを門限としている。日没が、昔の人々の
活動パターンに与える意味の大きさを知らせてくれる。その昔、中近東の人々やキリスト教徒にとって、日没が一日の
起点であった時代があったらしい。
一方ペローはお馴染みの夜中の12時。これは、当時の貴族の社交生活に範を得たものだろうか? 真夜中の12時は、
社会的な象徴性を持つ。陽光から最も離れた暗闇の状況下で、人間社会の単なる約束事として、人間の意思にかかわらず
日付と時間を一瞬にしてガラリと変えてしまう。その時点でこそ、ドラマを演出できるのだ。
③ 靴: 「金」 対 「ガラス」
アッシェンブッテルは金の靴を履いていた。 グリム童話では、靴の表現には気配りが見られる。“銀の絹糸で刺繍が
一面に施してある黄金の靴”のように、細やかな描写で華麗さを強調している。
ペローは、サンドリヨンに高級感のあるガラスの靴を履かせることにした。ルイ14世といえば、ベルサイユ宮殿を
建築した際、当時最先端のガラスや鏡の製作のため、ヴェニスから職人を呼び寄せたと言われるように、17世紀当時の
ガラスは、確かに高級素材だった。(実際には、さぞ、履き心地が悪かったはずなのに・・・。)
ペローのガラス導入が意図したものであるとの根拠の2つ目は、サンドリヨンのタイトルが副題付であることだ。
『サンドリヨン、小さなガラスの上靴』”Cendrillon, ou la petite pantonfle de verre”(白水社、今野 p.219)。
わざわざ傍題をつける必要性は何であったか。ガラスの靴という意表を突く発想であったから、冒頭から読者の注意を
喚起しておきたかったのだろうか。読者の驚きを予想した「ガラスの靴」の成功に賭けたペローの自信が窺える。
さらに、ペローの3つめの演出に注目したい。 フランスの口承話の原本では、上靴はリス皮であったろう。外用の固めの革製の靴に対して、室内用のリス皮は軽く、足に馴染みやすいので、履き心地の良い材質として受け入れられていた。
その昔、その柔らかさと軽さから、市松模様のリス皮毛布は高級品であった。つまり、実用的な見地からは容認できる
リス皮であるが、お伽話の世界で、王子様が靴にぴったりの持ち主を捜す場面になって、ソフトな形状のリス皮では、
「足にぴったりの靴」という表現の適格性に矛盾を感じないだろうか。 ガラスの靴ならば、サンドリヨンの足と靴が、「蝋で付けたようにピッタリとしている」というペローの表現が正に生きてくる。
他愛もない昔話の原作シンデレラを脚色したペローは、非常に理屈っぽく現実的であると共に、誠に想像力豊で、
超現実的な面をも持ち合わせていた。 靴をガラス製にした方が、日常性を薄められる。その透明な質感から、夢の
妖精の世界へと想像を広げさせてくれる。ガラスの靴であれば本当は履き心地が悪くとても重たいはず・・・という
現実を忘れて、透明さが我々の概念に錯覚を起こさせて、フワリとした無重力の世界へと読者を誘ってくれる。
ペローは「ヴェール」という言葉の響きを変えることなく、軽く履き心地良いリス皮の機能性と、ガラスの非現実的な
夢幻性を巧みに混合させることに成功した。 伝承を尊重しつつ、一段と洗練された高みへと作品を高揚させたペローの
創作力の妙技が傑作を生んだと結論づけたい。(完)
*********************************************************************************
<参考文献>
「ペローの昔話」 シャルル・ペロー著 今野一雄訳 白水社 1984年
「フランス童話集:サンドリヨン」 C.ペロー著 石沢小枝子訳 東洋文化社 (メルヘン文庫)1980年
「サンドリヨン」世界むかし話:フランス/スイス ロジャー・デユポアザン著 八木田宣子訳 堀内誠一絵
ほるぷ出版 1981年
「完訳:グリム童話 1」 金田鬼一訳 岩波書店 1981年