<付録>三度市長のウィッティントン
多くの慈善と仁徳を施した篤志家のディック・ウィッティントンは、なんどもロンドン市長になりましたが、
その出世話をいたしましょう。
ディックは、グロスターの片田舎の貧しい家に生まれましたが、幼少にして身なし児となりました。
一攫千金の話を聞いて、ロンドンに行くことに決めました。
都に着いたものの、お腹がすいて行倒れになっているところを、ある商人に助けられました。
街で拾った猫と共に、屋根裏部屋に住まい、御奉公の日々。
ある日、商船主のご主人から、奉公人にも船長に託して異国で物を売るようにお達しがあったので、
ディックは唯一の財産である猫を差し出し、船長に託しました。
そうこうするうちに、日々の辛い仕事に耐えかねて、とうとうディックは、夜逃げしてしまいました。
路傍の石に腰かけて、夜明けにハイゲートの丘で一休み。朝もやついて聞こえてきたのは、ボウ教会の鐘の音でした。
その音は、こう語りかけているようでした。
♪ 帰っておいでよウィッティントン
♪ ロンドン市長のウィッティントン
♪ 三度市長のウィッティントン
その鐘の音に勇気づけられたディックは屋敷に戻り、じっと我慢の御奉公を続けました。
そしてついに、その辛抱が報われる日が来ました。あの船長さんがディックに財宝を持ち帰ったのです。
ネズミに困った異国の王様が、金銀宝を山と積み、ディックの猫を買い取ったとのこと。
財産もとでに商売に励み、精進努力が実を結び、商人として大成功を納めました。
そして、ロンドン市長にも選ばれたのです。 三度も市長になりましたとさ。
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「ウィッティントン・ストーン」(3代目の代替石碑。伝説の大石は18世紀に割られて散逸)
所在地: ロンドン北部ハイゲート・ヒル通りの坂下近く。西側の歩道上。
建造年代: 1821年建立後、1935年に3代目が設置された。
ポートランド・ストーン製。
1964年に猫が上部に加えられた。黒みがかった石灰岩製。
サイズ: 高さ 約1メートル程、 横幅 約1.2メートル程
刻銘: 「リチャード・ウィッティントン卿
ロンドン市長 3回
1397年 国王リチャード2世
1406年 国王ヘンリー4世
1420年 国王ヘンリー5世
執政官 1393年 」
<写真> 猫を頂いた石碑。籠の鳥のように鉄柵で保護されている。
因みに向いの建物は、公営ウィッティントン病院の別館。
ウィッティントンの慈善事業とは関わりない。
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< 時代背景:黒死病と対仏100年戦争 >
中世とは封建制度の時代で、固定した身分制度と不動の社会制度であった。ところが14世紀半ばに猛威を振るった黒死病と
フランスとの100年戦争(1337年~1453年)が、時代を大きく変えることとなった。疫病で労働人口が激減したため、
都市労働者の需要が増えて、農村の農奴解放の方向に向かった。インフレの投機的時代風潮を反映して、都市商人階級の勃興を促した。
また、ウィッティントン存命中を通して断続的に戦われた対仏戦争も戦費が嵩み、戦費捻出に国王の苦慮が伺える。
裕福な商人達は、国王からの度重なる負担要請に応じざるを得なかったことは容易に想像できる。
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< 史実のリチャード・ウィッティントン (1354? ~ 1423年)>
謎その1 リチャード(愛称ディック)が、黒死病の恐怖がすぎた頃にグロスターシャーの裕福な下級貴族の三男として生まれて
まもなくのこと。理由は定かでないが、法的不備が原因で父親が法益剥奪の処分を受け、死亡したこと以外、生い立ちは霧の中。
貧民でも孤児でもなかったのは事実のようだ。
かくして、リチャードは13才頃上京して、織物商の下で、徒弟奉公に入った。年季が空けた22才頃、織物商人として独立。
ギルドホールの記録によると、衣装用の高級絹毛織物を扱い、顧客は王侯貴族や裕福な市民だった。
よほど商才があったようで、10年後には、王室御用達にまで出世した。
謎その2 当時、高級織物はヨーロッパ大陸からの輸入物で、宝石に次ぐ豪奢品として扱われていたそうだ。
織物商として営業を始めるに当たっては、莫大な資本が必要であったはず。リチャードはのようにして元手となる資金を作ったのか? 妻の持参金でも自身の遺産でもなかった。 重要なことは、猫でもなかったことだ。猫が話に登場するのは、リチャードの死後200年
も経ってからのこと。
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<参考資料> 「ゴグ・マゴグ: 英国の伝説と歴史の接点を求めて」黒田千世子 近代文芸社 1994年