32B ロロ王

         878年当時の英国地図           ロロの像 (在ノルウェイ、エールスンド)en.wikipedia.org/

<寄り道コラム> ノルマンディー公 ロロ王 (Rollo) 
             (846年頃~930年頃、在位911年~927年)

 ロロ王は、フランス北西部セーヌ川下流域のノルマンディー地方を所領とした初代ヴァイキング支配者。
亡骸はルアン寺院に葬られている。

 8世紀末から9世紀初頭にかけて、航海術に長けたヴァイキングは盛んに南下活動を活発にした。英国では、
すでにサクソン人が築いたサクソン諸王国へのデーン人(ヴァイキングの総称)の攻勢・侵略が本格化した。
自衛のための海軍力を持たなかったサクソン諸王国は、主として北部を割譲せざるを得なかった。大ざっぱに
って、現在のロンドンとマンチェスター辺りを斜めに結ぶ和解境界線を挟んで、北東部はデーンロー(デーン人
の支配地域)、南西部はかろうじてサクソン王国に残された。ロンドンがサクソン王国に帰属することになった
のはアルフレッド王治世(871年~900年)のせめてもの外交の功績によるものだった。

 かくして9世紀後半から10世紀にかけて、ヴァイキングにとって、サクソン王国の防衛体制が整い、やや攻め
にくくなったこともあって、攻勢の矛先はフランス西岸に転じられた。10世紀初め、ロロが率いるヴァイキングの
軍勢が、現在のノルマンディーに進攻し、強力な軍事力を背景に、フランス王からその地域を割譲した。その後
ノルマンディー公国と称されることになる。5代後の子孫は征服王ウィリアムであり、英国のプランタジネット
王朝の開祖。さらにロロの子孫は、シシリー島や近東(アンティオーク)にも進出し王国を築いた。

 ところで、ロールライトストーンの俗信にある野心を抱いたデーン人の王様を、ロロ王とした経緯はどんな背景があったのだろうか? すでに述べたように、ロロ王の領地はフランスのノルマンディーにあり、英国に飛地が
あったような記録は見当たらない。ただ晩年、サクソン王のアセルスタン(在位924年~940年)と親睦を結んだ
との記録があるので、短期間、英国に渡った可能性は否定できない。 ついでながら、ロールライトストーンの
所在地は昔のデーンローとの境界線に極めて近い。また、ロールライトの命名の元になったのは、「Hrolla の地」
の意味の古期英語であることに鑑みると、Hrolla をRollo と庶民が取り違えたとも推察される。

**********************************************************************************
<参考資料>
"A Guide to the Stone Circles of Britain, Ireland and Brittany", A. Burl, Yale University Press (1995), New Haven and London.

次のページ 32C「 ニワトコ」へ

32A「ロールライト・ストーンズ」に戻る

このページの上へ